許すということ。
許すことについて、考える。
許すとは、
さしつかえないと認める。
ゆるめる。(気を許す=安心する、油断する)
だそうな。
許すって、もしかしたら、ある意味で、
ものすごく無関心なんじゃないかなって思った。
無関心というか、客観的?
自分のフィールドじゃなくなるというか。
手元から、離れたところに出る感じというか。
なんか、「どうでもいい」っていうポジションになって、
気付けば許してる、みたいな。
私、許せないことは許さなくていいと思ってる。
だって、簡単に許せないから悩むワケで、
許せるなら悩まない。
何があったら許せるのか、
どうしたら許せるのか、
死ぬほど考えて悩んで、
それでもなお許せないならば、
許さなくていいじゃんって思ってる。
キッカケはお友達の言葉。
「許せない自分を許してあげて」
なるほど、と思った。
「許せない自分」のことが許せないから、
「許せない自分」を心が狭いとか思って責めるから、
「許せない自分」をダメだと思うから、
苦しいんだねー。
許せない自分にOK出したら、
許せない相手のことも気にならなくなるかもね。
私、けっこー長いこと許してない案件がいくつかあって、
それは私の正義・価値観に基づいてること。
その正義・価値観は、きっと永遠に変わらないから、
その人たちのことは、一生許さないと思うし、
だからと言ってその人たちに仕返しをするとか、
そんな話ではなくて、
また同じような思いをしたくないから、
その人たちとは一生交わらないなって思うだけ。
その人たちに私の正義・価値観を、
言ってもわからんだろなーって思うし、
理解してもらおうとも、
理解してもらうためにエネルギーを注ぐのも面倒と思う。
その人たちと関わって、
許せない案件があったからこそ、
自分の正義・価値観に気付くことができた側面もあるから、
感謝してる。
でも、それは許すこととは違う。
感謝と許せない気持ちが同居って、
とても矛盾してるようにも感じるけど、
私は、それでいいと思ってる。
だって、心の底では、その人たちのことが好きで、
本当は、わかってほしいとどっかで思ってるから。
好きだから、傷ついた。
好きだから、ガッカリした。
好きだから、許せない。
根底は、ここ。
私の場合ね。
自分の正義・価値観にこだわらなくなったら、
きっと許せるんだろうけど、
それは、私を大事にしないことだと思う。
なので、その人たちを許せるのは、
まだまだ先かもしれないなと思う。
その人たちのことがどうでもよく(=好きじゃなく)なるのが先か、
私の正義・価値観が変わるのが先か。
この許せない感情とは、気長に付き合うよ。